【奨 励】 「凜(りん)として」
熊本バンド結盟141周年記念 早天祈祷会
2017年1月30日(月) 熊本市花岡山奉教記念地
【奨 励】 「凜(りん)として」
九州ルーテル学院 院長 内村 公春 氏
(1972年 文学部卒業)
おはようございます。今年は2017年、マルチン・ルターが宗教改革を始めたのが1517年ということで、皆さんご承知の通り宗教改革500年になります。こういう記念の年に、こうして早天祈祷会でお話しをさせていただくことを、光栄に思います。昨年は、熊本は地震で大変な被害を受けました。まだ仮設暮らしという不自由な生活を送っておられる方も多くいらっしゃいます。心からお見舞いを申し上げたいと思います。さらに、ご存じの通り、熊本バンドのもとになったジェーンズ邸が崩壊するという出来事も起こりました。復旧に向け、多くの方々が取り組んでおられます。その働きにも神さまのお支えがありますように祈りたいと思います。
さて昨年から世界は、大きな変化が生じてきているようです。イギリスのEU離脱、さらにヨーロッパにおける難民等への不寛容な風潮、またアメリカのトランプ大統領の就任など、私たちの予想外の状況が生まれてきています。それを象徴するものとして、元旦の新聞での新年の企業のリーダーたちへのインタビュー記事の題は、「まさかの時代」となっていました。まさに、先が見えない、不透明な時代がやってきているというのです。
しかし歴史を振り返るとき、そういう状況は、決して例外的ではないことに気づきます。
それは熊本バンドに連なる人々の時代にも、あてはまることだと思うのです。幕末から明治という状況の中で、ヨーロッパ文明の様々な考え方、技術などを知る中で、どういう国を作っていくのか、ひいてはどう生きていくのか不透明な変化の時代、混沌とした時代でもあったのです。
こうした中で、洋学校教師ジェーンズによってもたらされた、今までにないキリスト教による明確な世界観、判断基準は、洋学校に学ぶ生徒たちにとっては、まさに目を開かれる学びでもあったのです。
ご存じの通り、1876年のこの花岡山でのキリスト教信仰宣言は、一方では洋学校が閉校に向かうきっかけともなりました。そして熊本バンドに連なる学生たちの動きは、京都の同志社に移ったわけですが、この熊本において、それを受け継ぐ動きが消えたわけではありませんでした。それは大江義塾、そして熊本英学校、熊本女学校などで示された教育によって受け継がれていったのです。
今朝は、一人の女性を通して、この熊本バンドの精神に触れてみたいと思います。
九州学院や九州ルーテル学院が所属するキリスト教学校教育同盟という組織があります。その会合で親しくお付き合いをさせて頂いた、徳永徹という先生がおられます。その先生が、福岡女学院院長を退かれた2012年、福岡女学院物語という本を出版されました、その題は、「凜として 花一輪」という題で、実は今朝の奨励題は、そこから取ったものです。これは先生の座右の銘的な言葉で、毎年の卒業生の聖書に一人一人、思いを込めて書かれていた言葉さそうです。
この「花 一輪」という言葉は、もともと当時102歳の卒業生の方から、聞いた言葉で、花とは野の花だそうです。「何処へ行っても、たいしたことはできないが、花、一輪、心ない人には踏みつけられるが、心ある人には喜ばれる。そういう人でありたい。」
この言葉に徳永徹先生は感動し、これに自分のお祖母さんの「凜とした」生き様を示す言葉を加え、「凜として 花 一輪」という言葉を座右の銘とされたのだそうです。
そしてこの徳永徹先生の祖母に当る方が、福岡女学院最初の日本人校長の徳永ヨシという先生です。
徳永ヨシ先生は、1895年、徳永規矩、うた子夫妻の三女として、八代で生まれました。父規矩は、津奈木の人で、慶応義塾在学中に洗礼を受け、1887年にキリスト教主義の熊本英学校を創立し、27歳の時、結核が悪化し、以来16年間闘病生活を送り、食べ物もろくにないほどの貧しい中で、信仰を保ちつつ、長崎で43歳で病死。死後枕もとに残された原稿が、いとこの徳富蘆花の計らいで『逆境の恩寵』として出版され、明治時代の隠れたベストセラーになりました。母うた子は、八代生まれで、12歳で同志社に学び、1886年に18歳で規矩と結婚、その後病に倒れた夫の看病に献身し、夫の死後は貧しさの中で5人の子供を育て、やがて竹崎順子の熊本女学校の寄宿舎の舎監となった方です。
徳永ヨシ先生は、こうした家庭で育ち、両親が長崎へ移ると間もなく、活水幼稚園に預けられ、以後、小学部、女学校、大学と一貫して活水で教育を受け、卒業後、そのまま活水女学校の先生となったのです。しかし国際関係は険悪な状況となり、国内では軍国主義、国粋主義が急速に勢力を拡大していき、キリスト教に対する圧迫も強まり、全国のキリスト教系学校のアメリカ人宣教師は相次いで、追われるように帰国していきます。代々校長を務めていた福岡女学校(後の女学院)も、その例にもれず1932年、切なる願いに答え、37歳で校長に就任します。1937年には日中戦争が勃発、米英による中国支援もあり、泥沼化していき、国民の間には反米思想が広まる中、アメリカからの経済的援助も激減し、また入学生も減り、学校の財政は厳しい状況となります、また当然ながら、学校のキリスト教主義教育に対する弾圧が強まっていきました。しかしヨシ校長は、孤立無援の中、信念を変えず、キリスト教教育の基本を守り通して行ったのです。当時の教頭の記録では、「校長は、官庁であろうと校長室であろうと決して相手と場所によって態度を変えることはなかった。(中略)まさに『神を畏れ、人を怖れず』」と書いてあります。
このヨシ先生は、豪胆な人というよりは、小さいことにも気を配る、誰に対しても思いやりの深い、優しい方だったのです。県当局からの圧迫に対し、礼拝と聖書の授業を守り抜く決心の中、思い悩みながら、聖書のヨシュア記1章9節の「わたしは、強く雄々しくあれと命じたではないか。うろたえてはならない。おののいてはならない。あなたはどこに行ってもあなたの神、主は共にいる」という言葉を唱え、祈り続けたそうです。
戦争は激しさ増し、空襲によって校舎も全焼してしまいます。そういう中でも、校庭での青空礼拝を続けたのです。こうして戦争のさ中であっても、礼拝は続いたのです。
やがて戦争が終わり、生徒たちも学校に帰ってきます。しかしもう校舎はありません。その時のことを、卒業生はこのように書いています。
「私たちには、もう入る講堂もありません。私たちは玄関の前の植え込みの附近に集まりました、礼拝があるのです。青空の下です。腰かけるベンチもなく、ピアノもないのです。6月の太陽はカンカン照り付けます。それでも私たちが学校でなし得ることは、礼拝だけであったからです。礼拝だけが私どもの学校生活の全部と言ってもよいくらいであったのです」。
また別な記録には、こう書かれています。
「8月15日以前のい生き地獄に耐え、生き残った国民は、等しく生き返った思いをしたことであるが、特に、本校の場合、全く焼け跡の中から萌え出た草花と同じであった。敗戦で虚脱状態の国民の姿の中に毅然たる態度、微動だにしない徳永校長の姿こそ、真に生ける信仰の賜物であろう。祈りの中に着々と復興計画を打ち立て、今日の発展を築いた」
こうして、ヨシ先生は、学校の復興と発展のため尽力し、幼稚園から大学までの総合学園としての福岡女学院の発展の基礎を築く中、1957年9月、現職のまま62歳で天に召されました、学院葬として行われた葬儀には会葬者が3千人を超え、その詩を惜しんだのです。
ヨシ先生の生き様は、まさに「凜として」という言葉通りのように思います。
さて今朝の聖書は、「地の塩、世の光」という箇所です。イエスが弟子たち及び大勢の群集を前に山で語る、有名な山上の説教の一部です。
塩は世に味わいを添え、腐敗を防ぎ、清潔を保ちます。あなたがたは、地上でこのような役割をすでに担っているのです。大切なのはその塩味が自分からのものではなく、イエスに従うことによって与えられていることを意識し、塩味を失わないように、イエスに従う道を歩み続けることです。もし塩味を失い愚かになるなら、「もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられる」だけなのです。同様に、「あなた方は世の光である」と語られます。神の愛こそが光です。このように、「あなた方を通して、神さまの愛を示しなさい」と語られるのです。
さて、最初の述べた通り、昨年、今年と世界は不透明さを増しています。私たちも油断をすると、不寛容な排外主義的考えに陥るかも知れません。だからこそ私たちに与えられた聖書によって示される神さまの言葉が活きるのです。そして私たちにその道筋を示していただくのです。それは、まさに「凜として」という生き方であり、「地の塩、世の光」としての働きであると思います。それではお祈りします。